シニアのブログーQue sera sera

遅い結婚、遅い出産、当然娘はまだ同居。 シニアといっても、母と妻も適当ではありながら、一応現役。 日本語講師として、フリーランスで細々と仕事を継続中。 年金と少しの収入ですが、日常を少しでも「いい感じ」に過ごしたいと笑ったり、怒ったりを書いています。 萎えず、気張らず、刹那的と言われても、いい時間を大切に。 ごくごくありふれた日常ですが、立ち寄っていただければ嬉しいです。

Category:家族 > 母のこと

   誕生日おめでとう   

プレゼントを考えることが一度も億劫にならなかった人
それは、母でした。

母が生きていれば、今日は91歳の誕生日
今頃、あの世からこの世でアタフタしている私を見ながら
”あらま!” なんて言っていることでしょう。

今日は朝から仕事でした。

ちょっと、可愛いわがままを言う母は
”仕事を続けられるって、幸せよ”
とか
”なによ、仕事ばかりしてて、プン”
とか

今週、仕事や相続の面倒が絡まって、スムーズに進まず、
私がまだお花一本用意できていないことを
きっと、気にしていることでしょう。

あ! 気にしているっていうのは、
私を気遣うのではなく、
お花も無いの!?という方です(笑)

母と私は、最強の晴れ女
今年のように、落ち着かない天候ですが、
やっぱり、今日は晴れ

おかあさん、わたし なんとかやれてるかなあ?
そちらでは、瞬き一回がこちらの一年位だとか。
あと40回位瞬きするまでは、
この歳になっても飛び出す絵本みたいな私を
そちらから、笑って応援してください。

ここ最近、色々萎えそうな私が
何とかなるとき
おかあさんが そばにいるような気がすることがあります。

Que sera sera

そして、

コンチクショウ テヤンで べらぼうめ です。

もう少し、待っててね。
お花を買ってくるね。


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母は、1931(昭和6)年生まれでした。
1945年度 15歳 女学校4年 無期限で授業停止の時期です。
1946年度 16歳 女学校5年 修業年5年に戻され、授業再開。
1947年度 17歳 女学校6年 高等女学校の新入生募集は行われませんでした。
1948年4月 18歳 女学校高等女学校廃止 この頃に兵役から帰国した母の兄(私の叔父)の荒れ様は大変なもので、母は申請高校への編入はしませんでした。

私の時代に過保護なんて言葉をよく耳にするようになりました。
田舎からTVのニュースで見た映像が目に焼き付いています。
東京で受験期をすごす同世代(小学生)の子供の東京の塾での””エイエイオー、
必勝鉢巻で中学受験に向かう様子。。。
東京という街では、勉強は親がパワーを送るものなんだと。

現代はそんなこと当たり前なのでしょうけれど。。。

文字にして、たったこれだけの年表を見ても、
授業があった頃でさえ、墨で消された教科書を使って。

母の女学校4年生以降の話では、

女学校に兵隊さんが寝泊まりするようになって、
位が上の兵隊さんが馬で行き来していたの
馬の行き来がどんどん頻繁になったりしていたわ。

そんな頃に、(①で書きましたが)落下傘でドレスを作ってダンスを披露したようです。

1955年 24歳 結婚 卒業後7年間実家で祖母に寄り添って、食堂を作りあげました。
長男である叔父が出兵して、長い10年以上の実家生活にキリがついた年です。

1957年 26歳 出産 (あ!私の歳がバレた
母は、婦人系に問題があり、
かなりひどい偏頭痛を抱えていました。
当時はピリン系の頭痛薬が市販で購入できましたので、
どれほど服用していたことでしょう。

ホルモンが安定していなかったこともあり、私の上二人は流産してしまいました。
私の出産にいたるまでに、
つわり止め、
流産止め、
初期の陣痛促進剤

赤ちゃんがお腹にいながら、たくさんのお薬を使うことに不安があっても
あの時代は、お医者様任せでした。

出産までにたくさんのお薬を使ったことは、
貧乏教師の上に、酒代を削れない家庭では
家計的にも大きな負担だったでしょう。

お給料明細は見たことがないの。
渡されたお金を家賃、光熱費、と、封筒に分けると
食費の封筒に入れるお金がなかったわ。
と少し悲しそうな笑顔で、
それでも、それは決して愚痴ではなく
独り言のように言っていました。

私は、丸々でした。
母は、体が弱いとはいえ、母乳は人に差し上げられるほどだったとか。
人の体は不思議です。




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母が、おばあちゃんになる前に旅立つとは思ってもいませんでした。
64歳
足掛け3年の間、癌とともに、手術とともに。

母の実家は、表がお蕎麦やラーメンを扱う食堂で
裏が大広間もある割烹旅館
地元では結構名の通ったお店でした。
運動神経がよくて、美人で、愛嬌があって、ちょっとだけ団子っ鼻なのを気にして。。。

父も旅立ったので書くことができます。
父は教師でした。
亡くなる直前まで同窓会に呼んでいただけるほど、
先生としては成功していたのではないでしょうか。

けれど、実はひどい酒乱で
今ならば、DVとかで
もしかしたら、全然違う家族になっていたかもしれません。

星一徹のようにちゃぶ台をひっくり返すなんて、序の口でした。
母はどれだけ私を守るためにつらい思いをしたことでしょう。
だから、私を分身というくらいに、私達は結びつきが強かったのかもしれません。

な〜んてことは、今更どうでもいいのかな。
母は、あの世では父の大先輩ですから、
きっと、わがままいっぱい楽しんでいるでしょう。

本当に、素敵な母でした。
大好きでした。
亡くなってもう20年以上経つのに、
母の写真を見ることはあっても、
ビデオを見ることができません。
声。。。

母が、旅立ってから娘が生まれました。
父はいいおじいちゃんになってくれました。
私には見せたことのない笑顔を
私にはかけてくれたことのない言葉を
娘にたくさん与えてくれました。

けれど、私の父としては距離がありすぎました。

夫は、優しいというより、弱い人なので
10年の付き合いと
夫婦になって6年の二人の生活が
急激にかわっていることに
ついて来ることさえ心もとなく。。。

娘がお腹にいるときも、
生まれてからも、
きっと、どれほどの他愛のない話ができたのだろうと。
母の声。。。

娘が幼稚園の年長になった年に私は乳がんになりました。
母の声。。。

母が旅立ってから、どれだけ母に
あの呼び方で名前をよんでほしかったことでしょう。

ビデオを見てみようか、
何度も手にとってはみました。
結局、未だに見ていません。

今年の誕生日が来ると、私は母より年上になります。

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