シニアのブログーQue sera sera

遅い結婚、遅い出産、当然娘はまだ同居。 シニアといっても、母と妻も適当ではありながら、一応現役。 日本語講師として、フリーランスで細々と仕事を継続中。 年金と少しの収入ですが、日常を少しでも「いい感じ」に過ごしたいと笑ったり、怒ったりを書いています。 萎えず、気張らず、刹那的と言われても、いい時間を大切に。 ごくごくありふれた日常ですが、立ち寄っていただければ嬉しいです。

Category: 思うこと

身内を褒めることに抵抗はありますが、もう没しているのでいいでしょう。
母は私から見ても総じて「上品」と感じる人でした

「品=ひん」って?
人や物事に備わっている品格や品質。しな。(コトバンク)

「上品」って?
品格のあるさま。品のよいさま。また、味などの洗練されているさま。(コトバンク)

結局、「上品」「品がいい」と感じるのは、人それぞれの主観によるところなのでしょうけれど。

私の感じた母の「上品」は、身だしなみを整えるということはもちろんですが、
言葉にあります。
表情にあります。
所作にあります。

母は、お茶目で、喜怒哀楽のはっきりした人でした。
冗談やいたずらも大好き。

でも、言葉遣いが美しかったのです。
悪口や毒舌さえ慣れた美しい響きの言葉だから、
どんなに怒ったり、嫌がっていても耳を塞ぎたくなることがありませんでした。
そう、声って音量も大切だと思います。

表情がとても豊か。
真剣に怒るし、真剣に喜びます。
それでいて、一歩家をでたら、いつでもスン
そして、微笑みを浮かべているような表情
加えて、私は何故母に似なかったかな~と思える美人
今どきだと、あざといと言われそう。

「凛」としていて、亡くなる直前
いや、その瞬間でさえ
崩れることが無い、美しい品を保っていました。

私の中で遅ればせながら急上昇中のジェーン スーさんを週末という時間にYouTubeでオッカケしていたのです。

トーク番組の一つで、MCの方が「全てに品を感じる。たとえそれが毒舌でもそこに品がある」といったようなことをおっしゃっていました。

私が急に惹かれたのも、そこなのです。
お母様を亡くされてからのお父様とのやりとりや、
腹の中というのでしょうか、口に出さなかった思い
身内でも、身内だから、厄介だったり、親身だったり
「父とは何度も親子の縁を切ろうと思った」という表現があれば
一方で「私は父に甘い、とことん甘い」
そんな表現があちらこちらに散りばめられて・・・

そのトークの中で、恥ずかしながら「矜持=きょうじ」という言葉を始めて知りました。

【自尊心とは】
自分をかけがえのない存在として、肯定的に受け止める感情のことで、それは自己を基準値として評価しているので、他人の評価に惑わされることがなく、人との関係性を持ちうるということのようです。

主観ですが、最近は「自尊心が高い」と「プライドが高すぎる」は似たような意味合いで使われているような気がします。自己中心的でとっつきずらいといったように。

でも、言葉の本来の意味からすれば、自尊心を適度に高く保てる人は素敵な人なのだと思えそうなのですが、その意味合いでは「自己肯定感」の高低が使われているようですね。

【矜持とは】
自分の実績をもととして、功績や能力を誇りに思うことで、ここには「根拠のない自信」というのは存在しなでしょう。そして、実績があるからこそ、他人と比較されても、揺らがない自信が生まれた状態といったことのようです。

【自信とは】(コトバンク)
自分で自分の能力や価値などを信じる事。
自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。

スーさんは、「とんでもないことを言ってばかりいますが、それでも品があるといっていただけるのは、嬉しいです。もし、それを品と言ってくださるなら、矜持という言葉が品につながるかと・・・」
という内容のことをおっしゃっています。

私はというと、未だに娘に「自己肯定感低い~」と言われるくらいですから、オドオドしているわけで、そこで、上品な生き方がしたいといっても、オドオドが見え隠れするのです。
なんとも、滑稽としか言えません。

思い起こせば、母は「戦争中でろくな勉強もできなかった。けれど、それは理由にもならないわね。でも、勉強しなかったから、知識が深くないってことは知っているから、いっぱい教えてね。」
知らないことは知ればいいのです。
知らないことは隠す必要はないのです。

そんな簡単なことを私はできていないような気がします。
自尊心とか矜持とか言う以前に
誇りに見せかけた見栄が自分を支えているような気がします。
(やっぱり、自己肯定感低い~~)

せめて、そんな自分を笑っていられるように生きて
品を保っていられる自分を意識していたいものです。

IMG_4775


使いたい空き瓶のラベル
ここまでは、お水でふやかすと簡単にはがれたのですが、
これ、取れないし、ベタベタが残ります。

何で見たのか忘れましたが
このベタベタは日焼け止めで取れるとのこと。
早速試してみました。

IMG_4776

塗ってから、しばらく放置が必要です。
日焼け止めをティッシュで拭きとってから、
食器用洗剤で洗い流します。
とても簡単というわけではありませんでしたが、
大分楽にベタベタが取れました。

シールはがしを使えば簡単に剥がせるとは思いますが、
できるだけ有機溶剤は避けたい、なんて気持ちもあるので
これまでは、酢に浸して流して・・・

日焼け止めは、酢のように口には入れられませんが、
食べられなくとも、肌につ付けるものなので許容範囲( ´∀` )

今日はとりとめもないことになってしまいました💦
急にオシが出現。
シニアという世代だから訪れるのだろう
仕方のない脳活動停滞期なのだろう
そんな風にとあきらめかけていたのですが・・・
オシに触発されたからに違いない!
自分の望んだ活動を脳が活発に再開しているゾといったところでしょうか。

楽しい!

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NHKの朝ドラで夫婦別性について触れていました
私は一人っ子、夫は男二人兄弟の長男

両親の世代は戦後法律が改まるまでの戸主制度で育った時代です
心情的には私の実家が続くことを託したかったはずですが
どちらかにしなければならないのだから
相手=夫の姓になることを認めなければ
私の結婚が進まないと考えてくれました

一方で、あなたを「嫁」にやったのではないと
柔らかく、けれど、何度も言っていました。

そして、自分たちが先に逝くのが普通だけれど
あなたが自分たちより先に逝くようなことがあったら
あなたは「嫁」ではないのだから、
相手のお墓に入るのではなく
自分たちが入るお墓に連れてきます

そうしたことを話していました
それは、法が変わっても「姓」の扱い方が
戸主制度を色濃く残していることで
殊に女性が「相手の家に入る」という文字
女+家=嫁
ここに表現されているからだったと思います

余談ですが、職業がら漢字の面白さを伝えるときに
女の生涯を表す漢字を使うことがあります。

 として生まれ
いい子に育つと娘(女+良い)になります
娘は夫の家のために嫁(女+家)になります
嫁はその家の様々を子供の成長とともに学び続け
子供の配偶者を迎え姑(女+古い)になります
そしておばあさんになると皺だらけです婆(波+女)

Q:男性でそうした漢字は?
A:苦笑い

お盆の準備や後片付けを家族3人でしていると
お墓のことが話題になりました

夫方の義母は多くの日本人がそうであるように
仏教徒であったというより
慣習的に仏教で供養されています

義母は早くに亡くなったので
その後、心を平常に戻せないでいた義父は
キリスト教徒となりました
義父は改宗を考えていません

その選択は同じお墓には入らないという現実になるのです

私の両親は私を自分たちと同じお墓にと望んでいました
「私は分骨しかないね」と娘に伝えていました

私の父は日蓮宗の住職の息子でした
本来そのお寺を継ぐ立場だったのですが
母との結婚のために家を出たのです

多分父は自分が住職という立場を継がずに
家を乱した事への複雑な思いもあったでしょうし
後悔していただろうと思うのですが・・・

父の知り合いにキリスト教徒で魅力的な方がいたようです
私を教会に連れて行きました
成長期の私にはキリスト教が身近にあったのです

日本のお墓事情を考えると
「姓」の問題だけにかぎらず
敬虔な信者というわけではありませんが
仏教のお墓ということにひっかかるものがあります

結婚して「姓」が変わるということに
とても大きな労力が必要でした

小さなことかもしれませんが
結婚することで仕事への考え方が変わるわけではなかったので
旧姓のまま働きたいと伺ったところ
外資系の企業だったのですが
取り合ってもらえませんでした

同じ時期に離婚をした女性が同僚にいました
彼女は結婚なさってから私と同じ会社に転職なさった方でした
私とは逆に、結婚していた時の姓のまま働きたいと申し出ました
これは受理されました

離婚ということが発生したら
結婚以上の大きな不都合を女性が担わなければなりません

結婚でも離婚でもお墓でも
女性でさえその状況にならなければ気付けない負担があります

単純に人の一生を考えた時
自由な選択肢が無いことを不思議に思っています

夫婦別姓も良し
夫婦で新しい姓を作ってもいいじゃないと思っています
例えば斎藤さんと高橋さんで高藤さんとか・・・

最近旧姓で働ける環境ができてきたようで
本当に良かったと思います
旧姓で配った名刺は個人の名刺ですもの

我が家のお墓会議では

・義父は改宗しないので、義父の意志を尊重しましょう
・夫は両親が別々のお墓に眠ることになるのだから自分は何も拘らない
・私は自分が生きている間は両親の思いを継続していてあげたいが、娘に墓を守るという重荷を負ってほしくはない。私自身は夫同様何も拘らないから散骨でも構わない。
・娘は、不思議だけれどお墓や仏壇の前で手を合わせる心の穏やかさは絶対にある。墓終いは私が考えるから、終活などに時間を使わず、楽しく生きていて欲しい。

ということで、娘がその時に結婚していて、相手方のご家族に「お墓のことはいい加減にしちゃだめ。」と言われても気の毒ですし、夫と私は自分たちのお墓に対する考え方を書いておこうということになりました。

「姓」も「お墓」も「家」も
「守る」という重荷から解放されて
自由な選択肢を増やせたらいいのに 

IMG_4717

ひき肉1㎏分仕込みました💦

IMG_4715

各々好きな大きさと焼け具合を選びました

合い挽肉 1㎏
玉葱 中5個
卵 1個
牛乳 100㏄前後
オレガノ タイム ディル
 
ひたすら玉葱のみじん切り
夫が炒め係

丸めたら片栗粉を両面に振って、油で表面をカリッとあげます
オーブン200℃ 予熱、ソフト仕上げ

写真に写っていませんが、ソースはオニオン・ガーリック
玉葱小半分くらいをみじん切り
ニンニク2~3みじん切り
玉葱とニンニクをオリーブオイルで十二分にいためて
醤油、酒、みりん、水=1:1:1:2を目安に味調整

マッシュポテトはいつも通り
ジャガイモを茹でて
マッシャーでつぶして
バターと牛乳を入れて
好みまで練ればできあがり

1㎏の仕込みというと覚悟がいりますが、
今日は全員3個ずつ食べました
次から2個ずつだとしてもあと2回分

作る手間は数時間
私の汗が引く前に全員完食

今日は夫も500g分練って、丸めて
マッシュポテトを練って( ´∀` )

夏休みに「名もない家事」の話をしたのが
夫にも、娘にも良かったのかもしれません

名もなき家事では、例えば洗濯だって

・洗濯物を色や汚れで仕分ける
・干す
・取り込む
・畳む
・しまう

と分けています

数百の「名もなき家事」は「手伝う」という言葉では
どうにもならないということにが、感覚的に合点がいったようです。

ただ、夫が私がキッチンで動いている間中
どのタイミングで自分のできることがあるだろうと
背後で仁王立ちをしているのは
見て見ぬふりをするしかないです( ´∀` )

休日出勤だった娘
8時頃夕食完食、就寝8時半
幸せいっぱいの「ごちそうさま」と「おやすみなさい」
だそうです



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怒りが大きくなると、怒るというのが普通なのでしょうけれど。
怒りが大きくなって、長く続くと、ある時プツンと音がしたように冷静になって、というより冷たくなって、頭がさえてしまいます。

子どもだったり、大人顔負けだったりの名探偵コナンじゃないけれど、笑って、優しく接して、事実が揃うまで待って、記録して。

今年に入ってから、理解があると信じていた方がどうもよろしくないのです。

笑顔の裏のご自身の頑なさに気づかれていない。
双方譲り合いというのは、弱そうな方が譲るまで、笑顔と言葉と拒絶でどこまでも。

私のメールに優しい言葉の飾りが消えかけたことに気づかれたようです。
1行で済むメールに溢れて留まらないほどの気持ちがくっついてきます。

優しい気持ちに蓋が閉まってしまった私は、事実だけあればいい。
多くの言葉は「もう、い~らない。」

私を従えようとしていたメールが、いつの間にか「私とあなたは同じ気持ちだから」となり、「あなたの優しい気持ちが私を動かした」と変わっています。
半年以上、私の考えを彼女が考える通りにしようと努力なさっていました。

でも・・・「もう、知~らない。」

私が鬼なのか、彼女が鬼なのか

私が仮面をかぶっているのか、彼女の仮面の裏が見えすぎるのか。

231018プレゼンテーション1


どっちもどっち。

馬鹿げた境界線劇はどのように決着がつくのでしょう。

沈思黙考、熟慮すべし。
それなのに、冷静を欠いてしまったというお言葉。

私は、1に冷静、2に冷静、3,4がなくて5に冷静。
「下手な考え休むに似たり」というところでしょうか。
できれば、黙して語らずの域に行きたいのですが。


まだ日常には戻りきれてはいないのですが、
たぶん明日で完全リセットできます。

だって、いい週末を迎えなくちゃ( ´∀` )






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毎日のようにブログを書いている私は小学生の頃から文章を書くことは嫌いではなかったと記憶しています。
今のシニア世代が小学生、中学生の頃は、まだ作文指導なんてありませんでしたから、結局 ”好きこそものの上手なれ” じゃないですが、書きなれていれば書ける。
そんな程度の作文だったせいか、原稿用紙の枚数におびえないだけでもそこそこの評価は頂けていました。

ところが、現代の帰国子女枠の受験は英語はもちろん、国語の分野でも課題が与えられ作文を書くという受験科目があります。
作文を書くどころか、漢字に苦戦している受講生もたくさんいますが、驚くことに、ほとんどの受講生が自分の意見をしっかり持ち、表現しようという意思もしっかりしているということです。

例えば、「長い休みだったので、家族で旅行に行けて楽しかったです。また、みんなで一緒に行きたいです。」

そんな作文はあまり見かけません。
何が楽しかったか、どうしてまた行きたいのか。。。
いっぱい書きたいようで、制限字数なんてすぐ超えてしまいます。

読んでいると指導の枠を超えて、どのような気持ちで環境の大きな変化を受け入れ、成長経験を持ったかに感動してばかりいます。

海外の生活に限らず、予測の範囲内の大きな変化は大人であれば考えて対処できます(します)。
子どもはというと、好むと好まざるとにかかわらず、その環境に身を置くしかない場合、もしかしたら大人より許容範囲が広いのではないでしょうか。

大人が「あの時はこうだったから」「あの経験は珍しいからきっと」などと考えていることなどお構いなしに、子供たちは学校という環境で何とかしてしまいます。

仕事で海外赴任の親は仕事環境では多くは英語かもしれませんが、職場に日本人が一人でもいれば、また、日本の本社と連絡をする際は母国語を維持したコミュニケーションがあります。

けれど、子供の多くは ”ポツ~~ン” がスタートです。

外国の方で日本の学校に子供を入学させた家族でも同じ。
日本語という、どうにも扱いにくい言語の中に放り込まれた子供は ”ポツ~~ン” とスタートしますが、毎日何かをド~~~ンと吸収しています。

すごい!
子どもってすごい!

母親の座った肝があるから、そこだけは安心できるからなのでしょうか。
それとも、親はなくとも子は育つ。
正にそれなのか。

過保護がいけないかというと、私は過保護です。
なぜなら、今の世の中、保護ているつもりでも不安が多いから。
過干渉は否定派ですが。
けれど、その是非を問わずとも、子供側からすればそうした過保護すら本来いらないのですね。

もう立てない我が子を立たせようとする象の母の姿を見たことがあります。
ケガや病気は野生の動物でも直そうとする。
ところが、動物園しか知らない動物では、育児放棄がよくあることだとか。

最近、幼児虐待の報道を目にすることが多くなりました。

育児を終えて、仕事でも多くのお子さんと出会い、日本人、色々な国の方との出会いもあり、
子どもって、自分から学んで生きる道を見つける力を大人以上に持っていると感じます。
大人は、見守っていればいいに違いありません。

けれど、大人の方が経験、欲や見栄に邪魔されてオロオロして、イライラしている。

我が子は既に成人していますが、過保護な私は一生「母」を勝手にやっていくのだろうと思います。
「母」の押し売り(o^∇^o)ノ

でも、我が子はそんな「母」の在庫をため過ぎず、うまい具合に使い切る方法を自分で学習したようですし、長期の体調不良との辛い喧嘩にもどうやら色々な意味で決着を付けつつあるようです。

私は過保護と宣言する割には、結局何もしていないのですね。


こどもって。。。
すごい。




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どんな世代でも言葉の流行があるように、疑問もあるのかもしれません。
”承認欲求が強い” 最近よく聞きます。
気づいてみれば、あの人もこの人も承認欲求が強いって十羽ひとからげのように表現されているような気もするし…

”わたしは、ここにいるよ。気づいて!できれば、ほめて!”

そんなこと3歳児はもちろん、思春期も、社会人バリバリもみんなあるような気がするのですが、昔といってもいつのことかはわからないけれど、昔は大人になるとそんな思いがたとえあったとしても表に出ている人が少なかったような気がします。

高校生くらいだと、”自分!自分!”の世界から、どこかで ”あの人って。。。この人って。。。”と、人目を気にするというより、気遣う気持ちがわいていたような。

街中でさほど重要とは思えないことでも、”そこまで??”と思うような大きな声で話す高校生を見かけることがよくあります。

社会人でもしかり、ビジネス界は我にあり!というくらい大きなな声やボディーアクションで携帯電話をしながらパソコンを見ながら。。。

そういえば、一つ経験があります。

狭い歩道のガードレールそばにポストがありました。通話できるイヤホンで電話の相手と会話をしながら、赤いポストにパソコンを置いてバシバシ。時にオーバーアクションを混ぜて。

会話は何か対象があれば不自然さはないのですが、イヤホンで電話の相手と話されていると、「なんと大きな声の独り言!?」と一瞬思ってしまいます。
少し遠目でもその光景は目に留まりました。

その方の近くを人が行き来しています。
丁度歩いている人をよけて、そのビジネスマン側に少し寄ったときです。彼のボディアクションの大きさゆえにその手で私は頭を叩かれたのですが。。。

自分の世界に夢中だったのか、表現に必死だったのか、イヤホンで耳を塞がれ、ポストの上のパソコンに片手が塞がれ、もう片方の私側の手は大きすぎるボディアクションに占有され。

そんな彼は状況を認識する余裕さえなさそうで、物理的に手が私を叩いたのは気づいたのでしょうけれど、ただただ、電話の相手とポストに向かって話している奇妙な人物になっていました。

おばちゃんの時代だったら、

「すみません、今駅に向かって歩いているところなので、お話できる場所を見つけてあらためてご連絡します。」とか。。。
私がどんな人物なのか承認してくれている相手であると思えるから、数分など躊躇いもなく待っていただきました。

そんな大声を私は愉快と思えないし、カッコいいとも思えません。
鬱陶しくて、楽しそうにも、ましてや充実しているようには見えないんです。
いつも ”お行儀の悪い人たち” と感じていました。
ところが、それは ”承認欲求が強い、もしくは満たされていない人” ということらしいです。

こんなことを感じるのは東京…都会だからなのかもしれません。
Another House のあるあたりでは、みんな控えめです。
私が育ったころと同様で、たとえば、お箸が転がっても可笑しい年頃の女子高校生が、楽しすぎて自分たちが予想しているより大きい声で笑ってしまったりすると、口を手で押さえて、お腹も抑えて、大きく出過ぎた声がまたおかしくて、涙をながし、声をこらえながら笑ったりしています。
もちろん、そこに鬱陶しさは感じないし、承認欲求なんて言葉もかすりさえしません。

ずっとモヤッとしている言葉、承認欲求。

シニアという世代になっても、承認欲求はあると思います。
だれかに覚えていて欲しい。
私を知っていて欲しい。

私の両親は既に他界し、一人っ子の私の家族は血縁ではない夫とたった一人の娘。
私を丸ごと承認していてくれた母が逝ってから、母のように承認してくれる人はいませんからずっとずっと母ロス。そして、どこかに気づかぬ、満たされていない承認欲求があるのかもしれません。

でも、シニアがそんな気持ちを表に出したら、とても面倒がられるのでしょう。
その代わり、シニアくらい年を重ねると自分の気持ちを他の表現でカバーすることができるようになるのかもしれません。
自分の老い、金銭、生活、孤独。。。そんなことも何とか経験と知恵で辛くならないように。

どこかで、承認欲求が目立つのは人が多すぎるから。と聞いたことがあるような気がします。
人が多いというのは、人口ではなく人口密度だと思うのですが…傍に人が多いと、プライバシーを確保したくなり、ごく近くの人とも疎遠になる。
けれど、傍らに人がいない、もしくは少ないと、プライバシーを守ることより、人恋しくなる。
そうすると、承認されることより、相手をどんな人なのか知って、その人との距離感で付き合おうとする。
自分を認めてもらうことより、誰かを受け入れたいと、相手を深く掘り下げて知ろうとする。
それが、多くの人の営みということらしいです。

どうやら、承認欲求が強いというのは、寂しさの裏返しの表現でもあるようです。

承認欲求はあまり強くないと思っている私が、ブログを書いています。
多分、母に日々話していたような、他愛もない思いをどこかで満たしたいと思っていて、母に話すことができないから綴りたいと感じているような気がするのですが、見知らぬ誰かが読んでくださるという前提が既にあるわけで。。。
これだって、承認欲求を満たしたいから続けているのかもしれません。


一つだけ思っています。。。
お行儀が悪いと思われるような表現はしないでいたいな。





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