シニアのブログーQue sera sera

遅い結婚、遅い出産、当然娘はまだ同居。 シニアといっても、母と妻も適当ではありながら、一応現役。 日本語講師として、フリーランスで細々と仕事を継続中。 年金と少しの収入ですが、日常を少しでも「いい感じ」に過ごしたいと笑ったり、怒ったりを書いています。 萎えず、気張らず、刹那的と言われても、いい時間を大切に。 ごくごくありふれた日常ですが、立ち寄っていただければ嬉しいです。

2023年01月

シニアのブログでは年金がよくとりあげられています。
節約すれば。。。なんて、甘くない節約を強いられることに間違いないのですが、心の貧しさが感じられないことがとても励みになります。

思い返せば、大学生で東京の一人暮らしがスタートしたのですが、仕送りが頼りでした。
父は見栄っ張りで、お酒の席でも自分で払ってしまったり、~たり、~たり、で母は家計のやりくりに本当に苦労させられていました。私の仕送りのお金は実家の商売の手伝いをしてパート代で工面してくれました。8万円、これが当時の平均的な仕送り額でしたが、母はその平均額を何とか家計の一部に組み込んでくれました。

最初に住んだ木造アパート、4畳半+ガス、水道(カスコンロは1口のが置けるだけ)、トイレ共同、風呂無、入り口別の貸し間、1万8千円。銭湯も確か120円くらいだったと思います。いけない日もあるので、3千円くらい、洗濯機は置けないし、干す場所も軒下だけなので、コインランドリー100円+時々乾燥機100円で3千円くらい、エアコンなしで冬は炬燵が離せないので6~8千円くらいだったかしら、電話もなかったから、公衆電話で実家にお風呂帰りに電話をするのに100円を用意、3000円也。
80,000-(18000+3,000+3,000+8,000+3,000)=45,000
ここから食費、被服費、交通費、書籍、交際費、雑費
この家賃でしたから、食事のやりくりが下手でも十分でした。
若さは、豊かさも望みました
貸し間の大家さんはとてもいい方でしたし、世田谷区の小さな公園が窓下にある静かな環境でした。東京でその環境の住まいは、高いか、交通の便が悪いかのどちらかです。後者、交通手段がバスでした。どんどん値上がりしましたが、JR初乗り30円でした。バスは高いし、長く乗ると到着時間などあってなきがごとく。契約更新の2年目を待って引っ越しました。

吉祥寺の木造アパート、3畳二間団地サイズ、3畳の和室+3畳分の板の間、トイレ共同、風呂無、電話無、2万8千円。銭湯も値上がりラッシュで150円それ以上、月で4千円以上になりました。
80,000-(28,000+4,000+3,000+8,000+3,000)=34,000
ここから食費、被服費、交通費、書籍、交際費、雑費

アルバイトの暇があったら、たくさん勉強しようね。と仕送り費用を捻出してくれた母の思いは痛いほどいつも胸の奥にあったのですが、バイトをしないと居酒屋に行ったり、喫茶店のコーヒーとケーキのセットを頼む余裕はありませんでした。

私が在学中に父が海外赴任となり、母は同行させられましたので、母が仕送りのために、金銭的な苦労をすることが無くなったことだけはほっとしました。

当時1ドル240~280円で動いていたと思います。土地、建物、様々な物価、金利、結果的にはバブルに向けて急上昇中でした。

東京の物価は当時から高かったですが、それでも私の学生時代はもう40年以上も前。昨今の物価高騰、光熱費の値上げ、医療費の負担額増。。。

若さは8万円の生活を楽しませてくれました。地方出身の一人暮らしはみんな大貧乏でした。学食でうどん1杯90円をシェアしたりして。

月末、男子が冷蔵庫にあるものを(賞味期限は見ないことにします。)私のアパートに持ってきて、何とかお腹を満たしたいと。お米を持ってきてくれた男子はいませんでしたが(´∀`*) 

フレンチトースト、パンプディング、サラダとしてもやしのマヨネーズ和えなんて変な取り合わせでも、美味しく、おなかが満たされました。

会社員になって、お給料をもらえるようになると、まるでお金持ちになった気持ちでした。おしゃれ、食事、インテリア、住まい、少しずつ贅沢が増し、そのつもりがなくとも浪費をしていた時期もありました。

溢れるほどあった服はリメイクしたりしながら、捨てる前に着つくしました。
長い時間をかけて持ち物もその役目を終えてくれました。多分、そんなに、無駄にした記憶はなく、収入が減った時は、あるものを工夫して暮らしました。それは、働き口は探せばある、収入は仕事を選ばなければ絶対確保できるという安心感もあったのです。

さて、年金。
シニアに働くように言われても、働き口は少ないですね。
アンケートで、「何才まで働きたいですか。」と聞かれます。
心の中では、「もう働きたくないな~」と思っています。
「働けるだけ働かないといけないですね。」と応えたいです。

あの頃に貧しさを楽しめた時とは状況が大分違いますね~。

しかし!ティシュも、床掃除用の紙類も、ペットボトルも、サランラップも、そうした便利なものが無かった時代を知っているギリギリ世代です。
買い物はついでではなく、買い物籠を下げて、今日必要な物だけを買いに行く。ゴミも少なかった。酒屋さんに瓶を返しに行って瓶代をもらう。そんな生活を懐かしがっていたのですから、昭和レトロを地で楽しめるに違いないと。

暮らしの思い出は、しまい込まずに、今を楽しむために使いたいと、懐古主義に浸った昨日でした。

少しでも笑顔の年金生活が送れますように。


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私にとって月は不思議です。
祖母が逝ってその最期を看取った母はしばらく祖母ロスでした。そして、ある時、月を見ると祖母を思い出すといったことを言っていました。

私がアラフォーだった頃、足かけ三年の癌との生活に終止符を打った母。時折私のブログに書きますが、きっと今でもロスという感じは消えていないのだと思います。

私達夫婦は10年経って結婚しました。その後娘が生まれるまで5年。私が41歳のときでした。
結婚⇒およそ4年後⇒母の死⇒およそ1年後⇒>娘の誕生

生前母と親しくしてくださった方々が、娘は母の生まれ変わりね、と仰ってくれますが、母のロスを耐えられるかどうか危なっかしい私のために、母が慌てて娘を送り出したような気がしています。もし輪廻があるとしても、母はそれを終えて、もう現世に戻って苦労をしなくともいい、蓮の池のほとりを散歩できるようなところに暮らせるようになったのだと思っています。

天界に住む人の瞬き1回のスピードは現世の1年だとか。母は私と離れたあちらの日々を楽しんでいるに違いありません。私は。。。寂しいです。会いたいです。でも、「まだ、そっちには行かないよ。私は、もう少し面倒なことだらけだけれど、どうやら、こちらでまだ暮らしていたいしらしい。」と母に心で話かけています。

東京で暮らすと空を見上げることより、人にぶつからないで歩くことに気持ちが向いてしまいますが、それでも、月明かりは、「あれ!?今夜は明るいね。」と空に顔を向けさせてくれます。娘は兎年。うさぎのような影の見える頃、
「あら、うさぎさんがお餅ついているよ。あなたお月様でお餅つかなきゃ。」
「どこにも行かないよ。ここで、お母さんとお月様からお餅がピンポーンって届くのを待ってる。」

な〜んて、月を見ては、母に娘を見せていたような気がします。

中学3年生の終わり頃から耐えることができないほどの偏頭痛や、それに伴う身体の不調が小柄な娘を苦しめてきました。最新の治療を受け始めたのが昨年の夏。その後、これまでの長い道のりを逆戻りするかのように、過去に見覚えのある体調不良を続けてきた5ヶ月。先週の水曜日の午後、ようやく当校できた娘。翌木曜日は午後からの授業。授業が終わる頃、娘と学校に一番近いファミレスで待ち合わせをして、おやつなんだか、早い夕食なんだか、娘の帰り道の体力を取り戻す時間を楽しく過ごし、お店を出たときです。5時前でしたから、まだ外は明るかったのですが、三日月より少し太ったお月様の右傍に星が光っているのを見つけました。

目が疲れていたらしく、母似のド近眼娘は月の傍の星がなかなか見えません。広い交差点で変な母子ですよね。みんな、下を向いて足早に動くのに、赤信号待ちの間、空を見上げたり指さしたり、見えるの見えないの。。。私の右腕につかまった娘にも月の右で寄り添っている星が見えました。
帰宅して、夜空の月を見てみると、とてもきれいな月と星でした。

毎年、天体ショーは私を楽しませてくれるのですが、この日の月と星もちょっと珍しい位置だったようです。きれいな星は土星。

てっきり、幼い頃の夕食の買い物の帰り道、母と指さした”一番星見~つけた” の金星かと思っていましたが。そんな珍しい月と星をようやく再起できそうな娘と偶然にも見ることができたなんて。母が知らせてくれたのかしら。天界からのメッセージかも(^∀^)
きっと娘はよくなります。元気になります。


おかあさん、ありがとう。まだまだ、よろしくね。



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オンラインクラスの仕事が終わって11:00頃。昨日は、月一度の娘の通院の日でした。
先日、学校に戻るのに体力、気力どうしても踏み出せずにいた娘が登校したエピソードの記事を書きましたが、これまで、娘を育ててくる中で、自分が娘に直接的に、そして、娘を見守る私を通して間接的にどれくらい関われたか、というより、何をしていたんだろう、と言葉抜きに実感したらしい夫。

娘の涙にグイット寄り添えたのは私で、自分は座っていただけ。そして、私が自分の癌、夫の癌、そして娘の偏頭痛と続けざまに寄せてくる日々を笑いながらよく乗り越えてきたんだね、と。その言葉が精一杯だったのでしょう。「これから、いっぱい返してもらわなきゃね。」と冗談めかしにいいましたが、「かえせるのかな。。。」

昨日、娘の通院に車で送ってくれました。「夕食のメニュー決まったら連絡してね。私は、メニューを考えるのはお休み。」

帰宅すると、夫得意というか、それだけは美味しく作れるミートソースを我が家の一番大きなお鍋で大量仕込みをしてくれていました。

私:あら、夕食のメニューだけじゃなくて、夕食の支度もお休みしていいの?
夫:コーヒーいれようか?
私:夕食の買い出しして、支度してくれている人に、コーヒーまで入れてもらったらバチが当たっちゃうわね。
夫:バチなんか絶対にあたらないよ。。。これまで。。。
私:そうね。いただきます。

なんとなくすれ違ってしまった気持ちが何年くらいあったでしょう。それも、大きな溝にならなかったのは、お互いにそんなときに距離、ハリネズミの距離を感じる力だけは残っていたからなのかもしれません。

もちろん、とても美味しく、娘はもちろん飲むように、たくさんいただきました。
ありがとう。ごちそうさま。美味しかった。が山盛りとびかた夕食のテーブルでした。

が。。。
W。。。

見ないことにしていた、キッチン。
しばらく、満腹を楽しみましたが、夫はテレビに没入。
お察しのとおりの、戦場と化したキッチン。
トマトがどうして、こんなところまでというところまで、ジャンビング。
ガスコンロの周りは、トマトの海
床は、オリーブオイルのスケートリンク

よっしゃ!と気合の後片付け

私は、お料理はそこそこ、続けてきた年数程度は作れるといったところですが、ちょっとの自慢はキッチンを毎回同様にきれいにして一日を終わりにしていることでしょうか。

汚れを都度落とすのはもちろんですが、排水のとろこのゴミ受け、水切りトレイ、洗剤ボトル等々も拭いたり洗ったり。

大分前に洗い桶はなくしました。シンクをいつも清潔にしていれば、シンクにお水を貯めることができるので、それで十分です。夕食の後片付けが済んだ最後にシンクを洗い、水をはり、食器用布巾、台拭きを洗います。シンクの水を抜いたあとは、切りっぱなしの小さくした古布で拭いてその布は捨てます。

そうそう、シンクやガスコンロ周りは、一番安いゴソゴソの浴用タオルありますよね。私はそれを使うのが気に入っています。布巾や台拭きを洗うときのため水の最後に洗うと、スポンジのように場所も取りませんし、すぐに乾くので、畳んで、定位置にグイっと。それに、長く清潔に保てます。

ため水をうまく使うと流しっぱなしより、お水を使わずに、しかもきれいになるよ。とは祖母が言っていたこと。
水の量を測ったことなどありませんが、感覚的にそうだと思います。

作ってくれた気持ちに”ありがとう”
美味しい食事に”ありがとう”

あと。。。
やっぱり。。。
後片付けまではセットになりませんかしら〜W



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自分も家族も土日休みが馴染んだ生活なので、オンラインの仕事スケジュールを自分で調整するようになって、初めてここ数ヶ月、そして来年の今頃まで土曜日の朝にクラスを持つようになって、体内時計って大した物だな〜と感じます。
休みに仕事をしている感を否めません。

けれど、ずっと家族と共に朝寝坊を楽しんでいた土曜の朝に早起きをすると、街の多くも朝寝坊しているのを感じます。平日はその時間に音のある街が静かです

IMG_3003

太陽が久しぶりの日差しをこれでもかと結露した窓を輝かせてくれました。

アメリカ育ちで日本語が苦手な小学生の女の子。多分私の日本語も音声翻訳を見ながらのようです。
朝のクラスは、体内時計がへんてこりんだけれど、一緒の時間を過ごしましょう。頑張れ!

少しずつ外出もできるようになってきた娘。
今日はランチに、久しぶりに美味しいお蕎麦を食べてきました。

早起きは、三文ではないけれど、気持ちが得をします。





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出不精のおデブさん
私が私につけた戒めのニックネームです。
ここ数日の出不精は出不精とおデブさんに拍車をかけそうなので、意識して外出をしています。

私は温暖な千葉県外房の出身なのですが、今年の東京が寒いといっても私が幼かった頃の冬より、寒くないような気がします。
毎年冬が来る前に外の水道をコートのように厚めのボロ布で覆い、その上から藁縄でぐるぐる巻にして、パッキンをチェック。それが毎年父がする恒例の冬支度でした。寒さが強まりそうな日はボタ ポタと水滴程度に水が落ちるようにしました。その水滴が少なすぎると、水栓から氷柱が下がってしまいますが。水を無駄にしないように水栓の下にバケツを置きます。

小学校に当校するときに私達がチェックするのはバケツ。バケツに溜まった水が凍っていると、氷を持って歩き出します。氷が無いときは、氷のお城のミニチュアのような霜柱をできるだけ大きくすくい、手の平に乗せて歩き出します。
毛糸の手袋をしていても、手袋はビショビショ。素手て氷を持つ勇者も其処此処にいました。

どうして、そんなことをするの???

私達の遊びに理由なんかありませんでした。そりゃあ、冷たいです。冷たさは肘から肩に向かって痛みに変化します。学校まで持って行けるはずもなく、側溝に置いてしまうのですが。

冷たくなった手ですが、ポケットに手を入れて歩こうものなら、こわ〜い先生に「ポケットから手を出しなさい!」と朝からお目玉をいただくことになります。そんなお叱りはまっぴらです。教室に入るとみんなでストーブを囲みます。真っ赤になった冷たい手、ビショビショの手袋は教室のストーブが温めてくれました。

一晩で雪が子供のスネ近くまで積もる日もありました。、学校に近い私達は学校に向かいました。学校に着いてから、

先生:今日は雪がひどいので、お休みです。遊んでないですぐに帰りなさい。
私達:。。。(雪合戦。。。雪だるま。。。)
先生:じゃあ、体育だけします。雪合戦ですね。体育は1時間目と2時間目。

そんな、無邪気に寒さを受け入れていられた元気すぎる体力はありませんが、寒い季節でも、軽くて温かいコートが味方してくれます。出不精返上で、身体の仕立て直しに精をだすことが今年の目標なのです。

そうそう、朝食のあと、Youtubeで帯結びの動画を見たのですが、今ってお太鼓も前結びが工夫されているのですね。それなら、五十肩で後ろに手が回らなくとも着物が着られるじゃないですか!
母の残した着物を洋服にリメイクではなく、私が着尽くしてみたいものです。

滞っていた事が動きだす気配を感じる今年です。母がそうであったように、シャンと背筋を伸ばし、帯と一緒に気持ちを締めて。そんな時間にしたいものです。

出不精はおしまい。


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